狭山山不動寺について

四季折々の表情を時の流れと共に散策

西武線沿線にある狭山湖(山口貯水池)と狭山丘陵に囲まれた、豊かな自然をはぐくみ、四季の移り変わりを美しく映す聖地の名にふさわしいこちらの土地に開山させていただいたのが。そしてに本堂が新たに建立。

境内には重要文化財が数多くあり、その荘厳な建物と自然が調和した景観はさながら古都を彷彿とさせます。

境内案内

勅額門
御成門
国指定重要文化財
元、徳川家台徳院一品大相国公(二代将軍徳川秀忠公)の御廟に建てられたものです。考養報恩の志を述べたいと、三代将軍徳川家光公が建立したもので、勅額は後水尾天皇の筆によるものです。
構造形式
  • 四脚門
  • 銅板葺
  • 切妻造り
御成門
御成門
国指定重要文化財
元、東京芝の徳川家台徳院(二代将軍徳川秀忠)の御廟に建立されていたもので、飛天の彫刻や絵画が多く描かれ、朝鮮渡来の天人門と言われています。三代将軍徳川家光公が建立したもので、格天井の中央に丸い鏡天井が設けられ、独特な様式を伝えています。
構造形式
  • 単層門
  • 銅瓦葺
  • 切妻造り
丁子門
丁子門
国指定重要文化財

元東京芝にある徳川家崇源院(二代将軍徳川秀忠夫人、豊臣秀吉の側室淀君の妹)霊牌所の通用門として、三代将軍徳川家光公が建立したものです。

建築の細部手法、色彩等に江戸初期に見られる特有な諧調を示し、唐様を基調としていますが、自由な扱いをしているところに伝統美が感じられます。

構造形式
  • 平唐門
  • 銅板葺
第一多宝塔
第一多宝塔と西武ドーム
埼玉県指定有形文化財

大阪府高槻市の、春日大神及び菅原道真を祭神とする畠山神社から、現在地に移築されました。

建立時期については諸説ありましたが、移築の際に発見された二重屋根の化粧隅木の墨書から、に建てられたことが明らかになりました。細部の装飾や手法が安土桃山時代の特色を良く表しています。

第二多宝塔
第二多宝塔

室町時代中期兵庫県東條町天神の椅鹿寺に、播磨国守護赤松満男教康が建立したものです。

細部にわたって室町時代中期の様式をよく伝えており、工匠の手によって当境内に移され、に完成しました。

大黒堂(柿本歌塚堂)
大黒堂

歌聖、柿本人麻呂のゆかりの地、奈良極楽寺境内に建立された人麻呂の歌塚堂です。当時の歌人たちが歌会を開いた堂宇であると伝えられています。に当境内に移設いたしました。

東叡山寛永寺山内の見明院に奉安されていたご本尊である大黒天をお迎えいたしました。昔から大黒天を拝むと、一生食べるに困らないと言われています。

構造形式
  • 入母屋造り
  • 本瓦葺
弁天堂(旧清涼寺経蔵)
弁天堂

滋賀県彦根市古沢町清涼寺に、井伊直孝の息女が生前に父直孝の追善菩提のため建立したものです。建立はからの間と考えられています。

に境内に移設され、そののち堂内に上野不忍池弁天堂のご本尊であり、大弁才天の分身として古くから東叡山寛永寺山内にお祀りされていた、金運や芸上達などの御利益がある弁財天をお迎えいたしました。

構造形式
  • 六角円堂
  • 一重本瓦葺
羅漢堂
羅漢堂

、明治の元勲として有名な故井上馨公の還暦を祝し、明治天皇、昭憲皇太后両陛下の御下賜金を基として、山県有朋、伊藤博文、大隈重信らの発起で、井上公の屋敷内に建立されました。

の戦火では、この堂宇だけが残り、現在地に移築され、羅漢像を奉置して羅漢堂と称するようになりました。

桜井門
桜井門

この門は奈良県十津川の幕末天誅組本陣として利用されたことがある桜井寺の山門として建立されたものです。

天誅組は吉村寅太郎、藤本鉄石ら志士は公郷中川忠光を擁立し、大和国(現在の奈良県)で挙兵。五條代官を襲撃(五條の変、十津川の変、大和義挙と呼ばれています。)しましたが、その後、政治の混乱もあって大義名分を失う形となり、さらに多くの密告者裏切り者が内部に出たことから、壊滅の道をたどることになりました。

構造形式
  • 千鳥破風
  • 四脚門
  • 本瓦葺(切妻造り)

寺院内案内図

境内地図